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峰山進


晶(あきら)が高一の夏、沢田家ではちょっとした異変がもちあがっていた。 父の役所での不正経理が新聞で報じられ、その余波が一家をじわじわと浸食しつつあった。

晶は学校の友人や先生が事件のことをささやき交わすのを何度も聞いたように思った。 そしてその度、彼の心に幼い頃から描かれていた弁護士を生涯の仕事とする夢は音もなく崩れていった。


終業式が終わり、クラブ活動のない生徒たちは早々と下校していった。 晶は家へ帰る気もせず、かといって図書館で本を読んだりする気にもなれず、校庭の西側の土堤の上に鞄を下ろした。 太陽は真っ向から照らしたが、彼はそれをなすがままにさせておいた。

彼は今鞄の中に入っている通知表を見た時の母親の反応を想像した。 期末試験は何もやらなかった、そう言ったら、母親は青い顔にもうひとつ影をふやすだろう。 そして、母親のために勉強するにはもう遅い。


ひとつの黄色いレモン大のボールが土堤の上へ飛んできた。 それを追いかけて目にしみるほど白いポロシャツを着た少女が走ってきた。 晶は左手でゆっくりとボールを抛った。 それは掌に心地よい感触を残して消えた。

彼は見るともなく緑色の金網に囲まれたその区域に目をやった。 彼からボールを受け取った少女は今や扉を開けて、その区域の中へ吸いこまれようとしていた。

その時、彼の耳に校庭のノック音や、裏道の排気音に混じって、初めてその緑色の一角で発せられるポーンという澄んだ打球音が聞こえだした。

そしてその区画の中に古ぼけたモノクロ写真から登場したような懐かしい顔があるのを彼は認めた。 その白黒の映像は忽ち鮮やかな原色を回復し、はっとするほど優艶な肉体の躍動を見せ始めた。


それは晶の幼馴染のゆかりという少女だった。 彼女が庭球部に所属しているのを彼はこの時久しぶりに思い出した。

ゆかりは小学校時代からかけっこが得意だった。 そして今、コート上をラケットを提げて小走りに駆ける彼女を見ると敏捷な野うさぎが連想された。 そしてそれは昔日のよちよち歩きの子うさぎの面影をもはや半分以上なくしていた。

彼の目前には規則的な弾道を描いて飛び交う黄色の小球と、それにその一瞬の自己を賭けたとでも言いたげな人々の動きが見えるばかりだった。 そこにいるゆかりは彼が忘れかけている何かを持っていると晶は感じていた。 彼はじっとそれらを見つめた。 そして渦に巻きこまれた漂流者のように次第にその中に吸い寄せられる自分をどうすることもできなかった。



夏休みが始まると、学生たちは解き放たれたかごの鳥のように四散した。 庭球部の練習は空になった学校の昼下がりの時間を使って続けられた。

晶は眼鏡をかけるようになって後スポーツから遠ざかっていたが、もともと球技は不得意ではなかったうえに、今は庭球がなければ日も暮れぬありさまだから、その上達も目覚ましかった。


練習がない日のことである。 一年生十数名が因島を経て弓削まで海水浴に出かけることがあった。

色とりどりの私服に身を包んだ仲間たちはやけに多弁で、目的の海水浴場の設備の悪さに不平をこぼしたり、高校の教師たちの癖をまねたりしながら到着までの時間をつぶした。

弓削に着いたのは太陽がつくる影がやや縮まり、満潮の波が貸しボート屋の柱を洗い出した頃だった。


早速つりをするために岩場へ急ぐ一群や、昼食前に一泳ぎしようと更衣室へ向かう一群から取り残されて、晶たちは桟敷に迷うようにとどまっていた。

ゆかりもそこにいた。 その時初めて彼女は晶の瞳を見たのだった。 それはどこまでも果てなく続く緑色の森のように彼女には思えた。 その森からは、彼女が幼い頃に遊んだ晶の面影はどこを探しても見当たらなかった。 ゆかりはずっと長い間自分の幼馴染と言葉を交わさぬ歳月を過ごしてきたのに気づいていた。


波間に漂うボートの上で、二人は言葉少なに語りあった。

「晶ちゃん、どうして庭球部へ入ったの?」

ゆかりは下から見上げるような昔からのしぐさでそう言った。

「それはきっと終業式の日にテニスをしているゆかちゃんを見たせいだよ」

ゆかりはその言葉にどれだけの真実があるかを確かめようというよりもむしろそれから急いで逃れようとして言った。


「私たち、こうやって話をするの、何年ぶりかしら?」

「きっと三年は経っているな」

ゆかりはもっと長い時間があったような気がしたのだが、それは黙っていた。 ボートに打ち寄せる波のきらめきがその間に多くのことが起きたのを告げているようだった。

「ぼくは今テニスのことだけを考えるようにしている。こんなぼくはおかしいだろうか?」

ゆかりはそういう晶の固く眉を寄せたような顔にいいしれぬ寂しさを感じた。

「そんなことはなくってよ」

「きみがそう言ってくれるのはとてもうれしい」 晶はこの時少しほほ笑んだように見えた。 「ぼくは今ひとりの孤独な芸術家をめざしている。 ぼくのラケットは画を描く筆、コートは画布なんだ。 どれだけ皆を感動させる素晴しい画が描けるか、ぼくは試してみるつもりだ」

晶の言葉はゆかりには口をはさむ隙もないほど研ぎすまされていた。 彼女にはそれが残念だった。 昔やったままごとやなわとびの思い出をどうして楽しげに語れないのかと考えた。 けれどもきっとそれだけではなかったのだ。 それはゆかりにはわからなかった。 そして自分の道を歩み始めたと信じている晶にもわかるはずがなかった。



晶は荒涼とした枯木立の中をウォームアップスーツを着て走っていた。 太陽ははや沈み、アスファルトの路面は凍るように白く水銀灯に照らされていた。

彼は走りながらいつものように何かメロディーを口ずさんでいた。 それがこわれたレコードのように何度も何度も同じ旋律を彼の脳裏でくり返した。

その閉ざされた空間の中に、先月県新人戦の準々決勝で対戦した一色選手のネットプレーが執拗に蘇った。 それまでの相手は敵でなかった。 しかし、一色は彼の前に確実な速さと圧迫力をもった巨人として迫ってきた。 その深く突き刺さるパンチの前に、晶は立ちすくみ、彼の画もずたずたに切り裂かれたのだ。 晶にとってはベスト8という結果など、うれしくもなかった。


彼はゆっくりともつれた歩調を整えた。 闇の中に白亜の校舎が浮かび出していた。 全ての教室が消燈してぼうっと暗黒にたたずむさまは、さながら砂漠に立った廃墟のようだ。

晶はそれが自分自身の未来を暗示するものでないことを願った。 通知表は一学期以来急降下の一途をたどっていて、今は親や担任も何も言わない。 進路のことを考えれば、薄墨を流したような闇が広がるばかりであった。 その闇は刻一刻広がってさえいる。

晶は後戻りはできなかった。 トレーニングだけが彼の闇を埋めてくれる。 夢中でボールを追い、体がきしみ始めるまで走り続ける時、彼は疲労の極みの中で束の間の幸福を感じた。

けれども時々、彼はもっと大切な何かを置き去りにしたような気がして不安になる。 いつも見慣れた風景が、最近急速に見知らぬ街角に見えてきて、赤や青のけばけばしいイルミネーションがやけに目についた。 そんな時、晶は半年前の弓削海水浴場でゆかりと乗りあわせたボートのことを思い出した。 あの時彼は何かを言い忘れていたような気がしてならないのだった。

晶は人けの絶えた部屋のスイッチを入れてタオルで顔をひとふきすると、頭に浮かぶ雑念を振り払おうと、最後の腕立伏せに取りかかった。



ゆかりは女友達のクリスマス・パーティーから帰って、もらったオルゴールをかけながら、いくらかシャンペンでぼうっとした頭で本立てからアルバムを抜き出そうとしていた。

そのアルバムにはこの一年間に起きたいくつかの彼女にとって大切な出来事がひっそりとしまってあった。

数回のピアノコンクール、そのうち一度は練習不足で思うように手が広がらなかったが、あとは先生からも褒めていただけるくらいよい演奏ができた。 そしてひとりの著名な審査員から自分のところで本格的に練習してみないかと誘われた。 それが彼女をいたく驚かせた。

それに比べると庭球部での戦績はあまりかんばしいものではなかった。 アルバムに残された写真はよいものだけにしたはずなのに、そこに写った自分のフォームはどこか不器用でいとわしかった。


そしてテニスの写真と文化祭の写真の間にはさまれた海水浴場の何枚かのスナップ、彼女はそれを見るといつも軽く首をすくめる。 五年前にまるで稲妻の直撃を受けたように死んでしまった父親のことをゆかりはよく考えた。 父親が最後に自分に伝えたかった言葉、彼女がその時父親に伝えたかった言葉、それは凍ったように発せられなかった。 それが果して何であったのかさえ、彼女は何度考えても思い出せないのだ。 ボートで向かい合う二人にはそれと同じような沈黙があった。 それが彼女の心を騒がせたのだ。

彼女はつと立って部屋の反対側のピアノの前に座った。 そして流れ出るにまかせたひとつの曲想を追いかけて弾き始めた。 父が生きている間続いた沢田家との交渉、父の死、沈黙、そしてその次に来るもの……ゆかりは恐怖に指先を震わせながらも、いつまでも弾き続けずにはいられない自分を見出していた。



木蓮のうす紫が自転車で疾走する晶の横を何度か不意の華やかさをもって通過した。 晶は高く舞い上がったテニスボールを思い出してペダルに力を入れた。

日曜日の午前八時、まだ活動の始まらぬ福山の市街地を通り過ぎ、彼は中国大会地区予選の行われる高校をめざしていた。

駐車場に自転車を置き、はやる気持ちを押さえるように石垣に囲まれた道を駆け抜けると、彼の前にグランド越しに庭球場が広がっていた。 そこでは選手たちが開演前のコンサートホールさながら、自分のフォームの調整に余念がなかった。 晶は長い冬が明けたことを遂に確信した。


その日の午前中いっぱいかけて男女シングルスの一、二回戦が行われた。 晶はこの地区では向かうところ敵なしだった。 オーケストラの人気ソリストのように、その活躍は春の空気の中でひときわ華やかだった。 それを見るゆかりの眼差しに残った冬の結氷も、次第に溶けかかるかに見えたのだった。

晶は長い練習が心地よく報われるのを感じていた。 しかし、それがもつ別の危険性には思い至らなかった。

それは彼の内面の力学の問題だった。 今や晶の回りには磁界が生じて、無数の女子部員たちの放つ熱を帯びた磁力線が張りめぐらされつつあったのである。


昼食がすんだ頃、ある一人の地区高体連の役員がやってきた。 三十代半ばの、その男は派手なトリコロールのトレーニングウェアを着ていた。 生徒間の噂では、学生時代庭球の名門大学で鳴らしたことがあるということだった。

その時晶は三回戦の最中で、多数の見物人を背に優位に試合を展開していた。

そこへ突然その役員がやって来た。 審判は試合の中断を宣告し、晶は審判台に呼び寄せられた。


「沢田君、その上衣をすぐ脱ぎなさい」

役員は眉ひとつ動かさずそう言った。

「なぜです?」

「君も知っているように、高体連の申し合わせでテニスウェアは白を基調とすることになっている。 許されるのは襟のみ色つき、ワンポイント、一本線だけだ。 君のは細いが三本線、それに胸にワンポイントがついて制限をこえている」

晶のシャツは胸に煌々たる夜空の星が象られていた。 そしてこれは彼が一番気に入っていたシャツだった。


「けれども、ぼくは朝もこれを着て試合しましたし、誰にも注意されませんでした」

役員はそこで一呼吸おいて、無遠慮に晶の顔を見た。 それから化石と化した表情でこう言った。

「君は少しいい気になり過ぎているようだな。 そのひょろ長い足は本当に鍛えた男の足じゃあない」


晶はこの時、深い井戸の奥底から赤い溶岩流が噴き出そうとするのを感じていた。 世の中の不正はこうやって行われるのだ。 それは権威と利害の名のもとに一人の人間に降りかかる。 その犠牲者は自分の父だけではない。 彼らは、人間の真実、あるいはテニスという芸術にかけた一人の男の生命の葛藤など考慮さえしない。 晶はそう心の中でつぶやいていた。

「とにかく、ぼく以上に派手な服装の選手はいますし、役員にもいるようです」 晶はちらと相手を見た。 「生憎ぼくはこれ以外に上衣がありませんし、事前に服装についてのそうした注意を受けていません。 少なくとも上衣を脱がせるという措置は次の大会からにしてください」


彼はこみあげる怒気を慎重に押さえながら話したが、ともすれば押さえきれなくなりそうだった。 視野の端あたりにゆかりが青ざめた顔で立っているのが見えた。

「それなら今日はいいだろう。 しかし県予選もそのシャツで出たら直ちに不戦敗だぞ」

役員はそう言うと、挑みかかるような微笑を浮かべて去っていった。


午後の日差しがどこかせつない胸苦しさを与えかけてきた頃、晶は決勝で一人の強敵と対戦していた。 その相手は他の選手のように、正確な制球さえきかせていれば自ら崩れていくという具合にはいかなかった。

いまだ一年生に過ぎないが、入学以前に長いクラブテニスの経験をもっており、ひとつひとつのショットが精密機械のようにそつなく組み立てられているのだった。 晶は初めのラリーの応酬の時から、自分の相手が容易ならぬ技術の持ち主であることを知らされた。

晶には打つ手がなく、互角の綱渡りを続けるのがやっとという状態だった。 その上、審判席に陣取った例の役員が自分を指して誰かに話しかけるたびに晶は自分の立場が悪くなるような気がしたし、心配そうに見つめるゆかりの視線は彼の誇りを少なからず傷つけた。


彼はポイントのたびに大声の威嚇射撃を試みたが、今度は相手も劣らず奇声を発してくるようになった。 そしてそれが線審の判定に対する抗議として晶の集中をかき乱した時、彼は最後の手段を取るしか栄冠はかちとれないと信じ始めていた。

そうして晶はずるずるとゲームを失うに任せていた。 やがてもうこれ以上ゲームを落とせば負けという時がやってきた。 場内はしんと暗い大洋のように静まり返った。 一年生の馬場がコートにバウンドさせるサービスボールの音だけがやけに響く。 晶はタイムを取って目の中に入ったごみをゆっくりと取った。

馬場はその間をもて余し、漠然と四囲を見回してぎくりとした。 そこには食い入るように試合の展開を見つめる人々の視線があったからである。 その瞬間、馬場は、攻撃を避けるために夢中でナイフを振りかざした男がいつか死体の前に立って呆然とするように、身震いした。


それで晶は勢いを取り戻した。 そこから勝利までの道はそう遠いことはなかったのである。 けれどもこの試合は晶の望んだ試合ではなかった。 緻密な筆がぼうっとドレスに包まれた貴婦人の肖像を浮かべるような画ではなかった。 縦横に素描されたデッサンは泣き顔の女のように痛ましかった。

晶は駆け寄ったゆかりたち、同じクラブの仲間に誇らしく手を上げた。 けれども彼女は顔を曇らせてこうつぶやいた。

「昔の晶ちゃんのほうがよかった……」



二週間後、地区大会の結果を受けて、県予選が開催された。

ゆかりは地区大会で負けたために姿を見せなかった。 そして、晶は女子部員がゆかりの転校を噂しあっているのを聞いたのだった。 晶には初めその意味が春の午睡のようにわからずにいた。 それからやがて五月雨のようにそれが彼の胸を温かくたたいた。 決勝で彼は負けた。



中間試験が終わり、初夏の薫風が中央コートのポプラ並木をそよがせるなか、一学期の掉尾の公式戦、県総体シングルスが始まった。

ゆかりはこの日午後八時半福山発の寝台列車で母親と東京へ向かうことになっていた。 駅には級友たちが大勢見送りに来ることになっていたし、ゆかりにとって東京行きはかねてから声をかけられていたピアノの先生にレッスンを受けられることもあって悲しみだけの旅立ちではなかった。

晶はゆかりのことも気にはなったが、今度こそ自分の庭球にかけた生活の成果を見極めるべく弾丸のように打ちまくって連戦した。 試合はコートを取り巻く自動車の流れのように順調に消化され、このぶんなら夕刻には片づいてゆかりを見送る余裕も生まれそうな気配だった。


ところが午後三時から始まった一色−馬場の準決勝三セットマッチがデュースの応酬で渋滞にかかったように一歩も進まず、そこから迂回路を通って一色が抜け出すまでに一時間以上も予定を超えてしまっていた。

晶はゆかりの見送りはあきらめるほかないと思った。 一色との決勝戦はどうでも決着をつけねばならぬ運命的なものだったからである。

晶にはかねてからの計画があった。 それは精神生理学的作戦とでもいうものだった。 ニーチェは嫉妬や怒りが強烈な悟性の輝きに会って泡のように溶け去ることを語っていた。 晶はその書物を涙をはらはら落としつつ読んだ。 そして今、偉大な哲人の肩の上にのって戦おうとしていたのだ。 心理戦はそれを時計仕掛けの操り人形のように読み切った者が勝つ。 それには極度の集中力と対象に溶けこむ想像力が必要だった。 敵の当惑や失意、歓喜をすら敏感に読みとって、次の作戦、次の球筋までも予測し、奇襲し、応戦する。 彼は全魂をその過程の中に浸透させた。 そして初めのセットを彼が取ったのである。


初夏のものうい倦怠が四方から闇となって試合場を包み始めた。 大会本部は協議の末点燈を決定した。 カクテル光線が初めはぼっと、やがてまばゆく輝き始めた。 その向こうには、NTTの四角いビルが都会の亡霊のように黒々とそそり立っていた。

何人かの女子部員が更衣を終えて、ゆかりを見送るためであろう、足早に競技場から去っていった。

晶は去年の七月、校庭でテニスをしているゆかりと再会した場面を思い出していた。 映像が色を取り戻した瞬間、彼はゆかりの姿に何かを見出し、それが彼をテニスへ導いた。


ゆかりの父が五年前に自殺し、同じ職場の晶の父が不正経理で退職した。 その一連の出来事の中には若い世代には知らされぬ何かの秘密が隠されているようだった。 晶はその頃から芸術的な生き方にあこがれるようになった。

じりじりと時間が過ぎていった。 晶は時おり暗い空を仰いで不安になった。 以前はあれほど身近に見えた闇というものが心を乱した。


第二セット、一ゲームダウンしてチェンジコートする一色がボールボーイをしている後輩と話す言葉が、晶の耳に伝わってきた。

「今日は調子が悪い」

「粘りですよ、先輩。粘ればペースに乗れますよ」

晶は腕時計を見た。七時十五分だった。


何かが足りない、と晶は思った。 どこかで自分の生活を包む透明なカプセルに一本のひびが入り始めた。 それは何かが生まれる胎動などではなく、やがて真空に全てが浸蝕される呪わしい予兆のようだ。

この時晶は簡単なレシーブをフレームにかけてアウトした。

「フィフティーン・ラブ」

そして彼はもう一度メビウスの輪のような思索の中に引きこまれていった。

──ぼくがテニスに求めてきたもの、それはいったい何なのだろう?

彼がその定まらぬ焦点を天上の星のきらめきから地上の青白い、うつろなすりばち型のコートに向けたとたん、一色の肢体がグラスファイバーのようにしなって、鋭い金属音が聞こえた。 そして同時にフラットの目にもとまらぬ球が打ち出されていた。


晶はその時、一匹のアゲハチョウが昼と間違えたのか、カクテル光線に照らされたコンクリートの狭間をひらひらと楽しげに舞うのを見ていた。

次の瞬間、一色のサービスボールは蝶の中心を貫いた。 すると四枚の羽は桜の花びらのようにはかなくひらひらと地上に落ちた。 晶はレシーブも忘れて眼前の悲劇を見守っていた。

「サーティー・ラブ」

晶は審判のコールにも気づかず、運命の転変に沈黙する、その死骸を凝視した。 彼がその徐々に無機物の冷たい世界に還元しつつある物体を通して何を見ていたのかはわからなかった。

ただ明らかなことは彼がラケットを地面に落とし、静かに四枚の羽を拾いとるとそれを胸に、今や何層にも連なった黒い影法師のような観客の群れをかきわけ、一台のタクシーを止めたということだった。 彼は未完の、最高のデッサンを残したまま、タクシーに乗って、やがてネオンの洪水のただ中を、ゆっくり駅への道をたどり始めていたのである。

(完)

2007/05/27

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