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峰山進

少年時代の私にとって、最も忘れられない蝶は家族で旅行した大山山麓で出会った蝶である。

午後、家族は大山五合目にあるホテルに着き、風呂に入った。 その後、私は年下の双子の姉妹を誘って、近くの草原に蝶を取りに出た。 姉妹は、いつもたわいない遊びをしていて、何か面白いこと言って誘えば必ずついてきた。


その草原は誰も網を持ってくる者などないらしく、いろんな種類のアゲハが無警戒に飛び回っていた。 アゲハチョウやキタテハなどに交じって、黒に鮮やかな青の羽をもつアオスジアゲハが飛んでいる。 他の蝶の数倍は軽快に動くこのアゲハは、ふつうの網のかぶせ方ではとても追いつかなかった。

私は、あと少しのところでこの蝶を二三度取り逃した。 片方がふっくらとし、もう片方がやせた双子の姉妹はさも残念そうに顔を見合わせた。 アゲハは蝶道といって、同じ軌道をぐるぐる回るという習性をもっている。 網を見当外れな方向へ振ると、アゲハはこちらをばかにするのか、次第に私に近い、大胆なコースを取るようになる。 それがねらいで、十分引きつけた時こそ、全力で網を振るチャンスなのだ。 しかし、その一回に失敗すると、アゲハは狂ったように飛び去り、二度と戻ってこない。


立てた指で双子の姉妹に声を出さないよう合図を送り、次第に近づくアゲハを凝視しながら座りつづける。 心臓が音を立てて打つのが聞こえる、何ともいえない緊張の一瞬だ。

そして、今しかないと思うとき、滑るように網を真横に振った。

「うわーっ、やったー」

双子の姉妹が口々にそう叫ぶ。

地表にかぶせられた網の中では、先ほどまで大空を自由に飛び回っていたアオスジアゲハが、うねるように羽を動かしている。


「よくつかめるね」

「持ってみる?」

そう聞くと、二人はとんでもない、というふうに首を振った。

「こわい!」

「持てるわけない!」

蝶を傷つけず、羽の鱗粉がはげないように固定するつかみ方は、近所に住む上級生の虫取りについていった時、教わった。

「きれいだねぇ」

「そうねぇ」


そう言っている時だった。 突然目の前を、今まで見たこともない蝶が横切った。 白っぽい大きな羽、鳥を思わせる力強いはばたき、花から花へ飛び移るそのリズム、目の前のアオスジアゲハなど問題にならない華麗な蝶だった。 私はアオスジアゲハを放して、その蝶の後を追い始めた。

「待ってよお〜」

姉妹が叫ぶのが後ろに聞こえた。

「旅館に戻ってろ〜」

「そうはいかないわよ〜」


その蝶の行動は極めて速かった。林道から木立が途切れた側道へそれたかと思うと、その向こうにぽっかり開けた、一面お花畑といった広場まで一気に飛んだ。 雑草に覆われた地面を進むうち、私の両足にはいくつものすり傷、切り傷ができていた。 私は家族を忘れ、学校を忘れ、目の前の一匹の蝶をひたすらに追い続けた。 林間の空き地には、りんどう、アネモネ、ススキといった草花が咲き乱れ、腰のあたりまで雑草が生い茂っていた。 蝶はその空き地の向こう側まで行き、やっと飛行速度を緩め、反転して今来た道をもどり出した。 どうやらチャンスが訪れたらしい。

私は蝶が通ると思える側道の入口に隠れ場所を見つけて、網を伏せて待った。 蝶はあちこちに咲く花を値ぶみするかのようにのぞきながら、私のいる場所へ戻ってきた。 しだいに暗くなってきた山中には、いつの間にか、一足早い秋の虫の音がうるさく、半ズボンで座る私の周りにはやぶ蚊がたかっていたが、私はそれを振り払うどころではなかった。


とうとう蝶は私のすぐ近くまできて、ゆりの花にとまり、わずかの間、茶色の中に白と赤が散りばめられた羽を開閉して休んだ。 今やこの蝶が、昆虫図鑑で見て以来、いつか取ることができる日を夢見てきたアサギマダラであることは明白だった。 失敗は許されない。チャンスは一度だけだ。 蝶に届くか届かないかの瞬間、私は、震える手で網を振った。 横にしていた網の輪を縦にすると風を受けて白いナイロンの網が開き、蝶は飛び去ったようにも、うまくその中に飛びこんだようにも見えた。

めまいのするような一瞬が過ぎ、私は祈るような気持ちで網をのぞいた。 そこには、見慣れない大型の蝶が淡いナイロンの生地を透かして躍動していた。 見る角度によって微妙に色を変える、美しい羽は、虹色といってもいい光沢を持ち、いつまでも見飽きることがない。 半ば信じられない思いを抱きながら、私は羽を傷つけないよう胴体をつかんで蝶を取り出した。

その蝶は、右の羽に小さく欠けた箇所はあるものの、その模様は十分鮮かで、若い個体だった。 沖縄から東北まで千キロ以上旅をする噂にふさわしく、羽から葉脈のような力強い筋が浮き出し、精悍だ。 それでいて、焦茶と白と臙脂が醸し出す羽の模様は十分優雅で、貴婦人という形容が一番似合う。


その時、後を追ってきた、双子の姉妹が後ろから私の背中をついた。

「わっ! どう、驚いた?」

その拍子に、アサギマダラは私の手をすり抜け、大空へ飛び立った。

こうして、私のアサギマダラ事件は終わった。 それから私は二度とアサギマダラに会うことはなく、アサギマダラを超える美しい蝶に会うこともなかった。


十数年が経過した夏の日のことである。 私は会社へ就職し、夏休みも自由に過ごせる身分になって、ふと蝶を取っていた時代の幸福を思い出した。 そして、子供のころ憧れていたが、どうしても取ることができなかった日本の国蝶オオムラサキを取ってみようと思い立った。

数少ない蝶専門紙の一つを取り寄せてオオムラサキのポイントを確認し、改めて二段式の捕虫網と三角ケースを準備した。 オオムラサキの確実なポイントは東海地方にあった。 私は広島から信州を旅し、東海地方へ寄って帰る旅行プランを立てた。


信州の霧ケ峰、八ヶ岳といった観光スポットは大変な人出で、笹に覆われた山腹をくねるように走る細い山道を歩くのは、登るより、すれ違う登山客をやり過ごす方が疲れるありさまだった。 けれども、東海地方のとある国道のガードをくぐったところにあるオオムラサキのスポットには幸い誰もいなかった。 私の横には幼稚園に通い始めた長男がいた。

歩き始めるとすぐ、クヌギやナラの疎林の間に、早くも大型の素早い蝶が飛ぶのが見えた。 何匹かがじゃれあうように舞い上がり、地面に降り立ったかとおもうと再び高く舞い上がる。 まぎれもなきオオムラサキの姿だった。


それは少年の日から夢見てきた情景で、心が騒ぐのが当然だった。 長男は見たことのない蝶を追って、あちこち走り回っていた。

私は網を振った。 何匹もいるオオムラサキは、簡単に捕まった。 見ると、どの個体も、時期が遅いため羽の鱗粉がはげ、紫や白の鮮やかさは薄れて、全体が茶色っぽくくすんでいる。 私はしだいに心が醒めてくるのを感じていた。

少年時代の私にとって、蝶はいわば宝石のようなもので、蝶取りは刺激の少ない田舎暮らしに、秘かな興奮を与えてくれた。 遊びから帰って自分の部屋にこもりながら、私は安物の昆虫図鑑を広げ、そこにカラスアゲハ、モンキアゲハなどいつも見かける蝶とともに、 白い貴婦人のごときアサギマダラや緑に光るヒサマツミドリシジミなどを見つめながら、それらを取ることができる未来の至福を想像した。 するとそれだけで頭の中が熱くなり、体が小刻みに震えたものだった。


私はオオムラサキを捕らえた時、そういう何かが起こるのを期待していた。 何しろ、オオムラサキは私の一番のあこがれだったのだ。 追い求めてきた蝶を捕らえた感動か、さもなければ物語の終焉に達した物悲しさが湧き起こるのが当然だったろう。 しかし、オオムラサキは、アサギマダラに出会った時の甘美な陶酔も、逃した時の生涯忘れない悔恨ももたらしてはくれなかった。 起こるのはただ、あまりにも捕まりやすく、あまりにも見すぼらしい蝶たちへの哀れみだけである。

「これが、子供の頃から憧れてきた蝶なのか……こんなことが、私の生涯の夢だったのか?」


私は思い迷ったあげくに、取った蝶を空へ放すことに決めた。 長男は不服そうな様子を見せたが、私は手元に取っておくことがどうしてもできなかった。 これらの蝶は、少年時代の感動と熱情の中で捕らえるのでなければ、捕らえてはならなかったのだ。

「さようなら、オオムラサキ」

私は静かに国道に止めた車へ戻り出した。

車に乗ると、キーをひねった。 サイモンとガーファンクルのBGMか何かが鳴り出した。 妻が言った。

「蝶は取れた?」

「いや……」

私はもう一度振り返って蝶たちの姿を見た。 それは、サイドガラスごしに小さくはあるが、先ほどと変わらず、じゃれあうような飛び方を続けていた。

(完)

2007/06/03

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